映画『万引き家族』を語る 映画という芸術世界を通じて覗く、是枝裕和の脳内
こんにちは。
兵庫県出身、ウサミと申す者。
今回の記事では、『万引き家族』という映画について語ろうと思います。
皆様、この映画、観ましたか?
日本アカデミー最優秀作品賞を受賞した話題作。
名前くらいは聞いたことあるのではと思います。
印象深い名作ですので、未鑑賞のかたは是非、観てくださいね。
万引き家族(2018)
監督:是枝裕和
出演:リリー・フランキー 安藤サクラ 松岡茉優 樹木希林 他
2019年の日本アカデミー賞といえば、口コミで広まり一大ブームを巻き起こした『カメラを止めるな!』や、ヤクザと警察の世界をハードボイルドに描いた『孤狼の血』などの名作がノミネートされましたが、それらを抑えての受賞でした。
監督は、『海街diary』や『そして父になる』などで有名な是枝裕和。
前作の『三度目の殺人』に続き、本作においても最優秀監督賞を受賞しました。
さらに、俳優たちの活躍も目覚ましく、演技賞を4人も受賞(リリー・フランキー 安藤サクラ 樹木希林 松岡茉優)するに至りました。
なぜ、この映画はここまで評価されたのでしょうか?!
この映画はいったい何を描いた作品なのでしょうか?!
僕なりに、この映画を紐解いていこうと思います!
すこし断定的に書くことがありますが、あくまで僕の見解ですから、「そういう解釈のやつもいるんやな」くらいに思ってもらえると幸いです。
鑑賞前提で話すので、観てない方はネタバレに注意してくださいね。
以下、ネタバレ注意
・観客を驚かす「万引き」シーン
この映画、『万引き家族』というタイトルを見て、
あ、なんかムズそう
って思いました。
なんかタイトルも「映画を全部見たら意味が分かってくる奥深い題名」みたいに思えました。
ああ~このタイトル奥深いわあ、みたいな。でもそういうのって正直よくわからんしちょっとメンドクサいなって思って。
でも、いざ観てみると、そういった先入観を打ち砕くかのように、映画はいきなり「万引き」シーンから始まりました。
事前に何の知識も入れずに観たので、まさかマジで万引きしてる家族の物語だとは思わず、驚きました。
しかも、結構その万引きがエンタメ感あって面白いんです。
そう、この映画、難しそうに見えて、意外と観てて楽しい映画だったりします。
哲学的でメッセージ性が深くても、観てて楽しくなければ飽きちゃいますよね。そういう意味では、この映画は本当に退屈のない映画でした。
あっという間に観客を引き込んでしまう。やはり名監督は始まりから見事ですよね。
・丁寧に、リアリティをもって描かれる「社会の底辺」
映画のメインである「柴田家」の面々。
不正や軽犯罪を繰り返し、社会のシステムからあぶれたような人々です。
はっきり言って「社会の底辺」であり、こうはなりたくない存在。
リリー・フランキーとか、あのどうしようもない感、うまいよなあ。
しかし、是枝裕和はこの観客の共感からは程遠い存在を、丁寧に、魅力的に描きます。
彼らのキャラクターとしての表情、掛け合いを丁寧に描き、リアリティのある空気感と温かさをひしひしと感じさせることで、観客を「柴田家」へと引き込んでしまうのです。
ボロボロの汚い家に所せましと住む人々。
口が悪く、品の無い彼らではありますが、その表情、そこに流れる空気や時間がすごくリアルで、それは確かに「家族」でありました。
しかし、丁寧に描かれる彼らの表情とは対比するように、序盤ではあまり彼らのバックボーンが深く掘り下げられることはありません。
この人たち、みんな何かを抱えているんだなという考察の余地を観客に与えます。
キャラクターを好きにさせながらも、ミステリアスさが残っているので、『つながりのない疑似家族』という存在に説得力があり、さらに映画に引き込まれました。
・血の繋がりを越えた、「繋がり」
映画の起承転結を担うキーとなる存在、それは「凛」という少女。
彼女は実の親から虐待を受けており、バルコニーに放置されているところを不憫に思った治に拾われ、柴田家にやってきます。
彼女を受け入れる柴田家。
水着を買いに行く信代、面倒を見る亜紀と祥太。などなど・・・
彼らの姿は家族そのものでした。
近年よく目にする、「児童虐待」のニュース。
僕が心の底から軽蔑するニュースです。なぜならそのニュースを聞いても学びは無く、ただただ虚しい気持ちと怒りしか感じないから。
「血の繋がり」という物を疑いたくなるようなその行為の数々は、人間の所業とは到底思えません。
凛も、寒空の下放置されていて、柴田家に拾われていなければ死んでいたかもしれません。実際、柴田家に拾われてからもしばらく捜索願いが出されていなかったのです。
血の繋がりに見放された凛を救ったのは、血の繋がりのない人々。
あたたかな繋がりを求める、という人間の普遍的な欲求を否定されてきたものたちが、「疑似家族」を作ることによってその欲求を満たそうとしているように見えます。
血の繋がり、ひいては人と人との繋がりそのものが希薄となっている社会。家族というものの定義が揺らぎかねないような凄惨な事件の数々。
怒りに任せて子にあたる姿は、家族のそれといえるでしょうか。
寒空の下、放置する姿は?
不正を働きながらも、寝る場所と食べ物を幼い子に与える姿はどうでしょうか。
目を見て対話し、笑顔を作ろうとする姿は?
血の繋がりを持った者よりも、社会のシステムから外れ、あぶれてしまった者たちが、むしろ温かな繋がりを保ち、家族の定義の本質を満たしている、という矛盾。
僕たちが生きている社会の中で信じられている「正しさ」の概念の外にいる人たちを丁寧に描き、その魅力をしっかりと味わうことができた。
そのために、気づかぬうちに彼らに感情移入してしまっていて、彼らの事を好きになっていました。
そしていつしか僕が持っていた「正しさ」の概念は揺らいでいきます。
彼らこそが正しい家族の姿だと。
彼らのもとで生きることが幸せだと。
彼らこそが真の家族である、と。
血の繋がりに見捨てられた少女の受け皿として理想的な存在であると思いました。
この映画は、この時点ではハートフルな、ある種非現実的な家族の姿を描き、「家族」という物を問う映画かな、なんて思っていました。
しかし実際は、この映画は残酷なまでに現実的な映画だったのです。
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映画はやがて、「繋がり」を問うフェーズから、「正しさ」を問うフェーズへと移行します。
・少年の目覚め
物語の「転」を担うのは、凛もそうですが、メインとなるのはこの「祥太」という少年です。
彼は本当は”祥太”という名前ではありません。
彼は親がパチンコに行っている間に、炎天下の車のシートに放置されていたところを、車上荒らしをしていた治が偶然見つけ、そのまま拾われたのです。
祥太というのは、治がつけた仮の名前。
後でわかることですが、治の本名は「しょうた」というんです。治は祥太と自分を重ねていたのかもしれません。
凛と似た境遇の少年。
しかし、彼は凛とは少し対比した存在として描かれます。
家族の温かみを知りそこを居場所とする凛に対し、祥太にはやがて「自我」が芽生えることになります。
というのも、祥太は家業である「万引き」というものの正当性について疑問を抱くのです。
まあ正当性もくそもなくド犯罪なんですけどね。
祥太は、生きる手段とはいえ、「人のものを盗む」って悪いことなんじゃないの?
と感じるようになります。
そもそも、彼は柴田家の事を慕い、家族として信用していたとはいえ、一度も治(リリー・フランキー)と信代(安藤サクラ)の事を「父さん」「母さん」と呼んだことがないのです。
いくら育ての親とはいえ、この「疑似家族」というものに潜む違和感に子供ながら気づいていたのかもしれません。
家族で海に行った際、治が祥太に「おまえ、おっぱい好きか?」と尋ねるシーンがありました。
そら好きやろ。
だって松岡茉優が義理の姉貴なんだぜ???
祥太もその贅沢さ加減に気づいてしまったようですね。
ここは治が描く父と息子の姿の再現、というシーンであるとともに、改めて祥太と亜紀は血の繋がっていない関係だということを思い起こされました。
このようにして、僕は、祥太の目を通じて「疑似家族という物に対する違和感」を少しづつ抱くようになりました。
ぺりぺりと剥がれる彼らへの感情移入、彼らに抱くささやかな疑念は、やがて疑似家族そのものを瓦解させる事件によって真実となります。
そして、祥太の「目覚め」は、観客が目をそらしていた現実を、容赦なく突きつけることとなります。
・「正義」と「正しさ」
事件とは、祥太と凛の万引きがばれてしまうのです。
そして、警察に補導されてしまう。
すると、彼が親なき子であること、 凛は誘拐された女の子であるということも当然わかってしまうわけですね。
それがきっかけで「疑似家族」の実態が暴かれ、柴田家は崩壊してしまうのです。
祥太、凛、ともに血の繋がりのない、拾い子です。
柴田家は彼らを拾ってきた。しかし、これは法の下では「誘拐」と判断されてしまう。
さらに、そこから柴田家が抱える罪も明らかになり、観客にはようやく治と信代の正体が明かされます。
このシーン、映画においてもっとも印象的なシーン。
演者たちの顔を正面から映し、まるでドキュメンタリーのごとくリアルに描かれています。
その演出にこたえる、演者たちの素晴らしい演技が見ものです。
いやビックリしましたよね。何かあるんだろうなとは思ってましたが、まさか殺人と死体遺棄とは。
次々と暴かれていく柴田家の真実。
「見たくないものを見せられている」感覚でした。それは、目を逸らしていた現実に他なりません。
このシーン。観ててすごく腹が立ちました。
いままで魅力的に描かれ、感情移入してきた彼らを、まるで大悪人のように否定するわけですからね。
柴田家を問い詰める「正論の刃」。
顔を写されなくともここまで存在感をだした、池脇千鶴と高良健吾も見事ですよね。
このシーンを不快に感じるのは、「目を背けていた現実に直面させられるから」ではないかと思います。
そもそも、祥太が補導されたとき、アッサリと柴田家は夜逃げします。
本当にアッサリ。
祥太の補導がきっかけで柴田家が調べられたらマズいですからね。祥太は施設に入るだろうし、悪くはされないでしょ、と。
えっ?見捨てちゃうの?
と驚くほどにアッサリ見捨てます。
彼らにとって「疑似家族」の繋がりは保身のために切って捨てるものなの?と突如として柴田家が抱える闇を見せつけます。
いや、いくら何でもそれはかわいそうやろ。
でも、そもそも柴田家がいなかったら祥太も凛も死んでたかもしれんし?
でも社会的に見たら誘拐やし、彼らは合理的すぎる気もする。
いや、でも彼らに流れていた時間は温かいものやった。
でも・・・
と、なにが正しいのか分からなくなってきます。
そんな状態で突きつけられる、「正論の刃」。
教育は、血の繋がりがあるものの下で受けるべきだ
柴田家は、教育者としての資格はない
ここにいるのは、祥太と凛の将来のためにならない
法は祥太や凛のような、社会にあぶれた弱者のもののために存在する
だからそれに従うべき
なぜならそれが正義だから。
でもそれってホント?
彼らにとって柴田家は居心地のいいところだったのに。
血の繋がりを否定されてなお、家族のもとに返したほうがいいの?
凛の親は果たして凛を愛するの? 虐待はなくなるの?
法に従うなんて、そんなのおかしいよ。
たしかによく考えれば、池脇千鶴と高良健吾の二人って間違ったこと言ってない。
むしろ、彼らは普段僕らが生きる社会の「正義」、の代弁者なのかも
ここで、「疑似家族」を眺めながら思い込んでいた、彼らこそが家族として正しい!という「正しさ」が、世間的な「正義」と乖離していることに気づかされるのです。
しかし、それでも、「温かな繋がりのある場所」こそ凛と祥太のいる場所だと信じたい。
ここで映画は冷酷な現実を突きつけます。
祥太は、施設に入り、学校に通うようになります。
社会復帰への一歩を踏み出した祥太。
ついに彼は治と信代のことを「父さん」「母さん」と呼ぶことはなく、「疑似家族」の過去と決別し、新たな未来へと歩き出すような希望を感じさせます。
一方、凛は実の親の元へ返されます。
しかし相変わらず彼女がまともな愛情を受けることはなく、家の外に放置され、ひとり寂しげに外を見つめるというカットが入り映画が終わります。
繋がりを手に入れた彼女は、またそれを失い、それがまた手に入るとは思えないような希望のない終わり方をします。
社会的な「正義」がうんだ、光と影。
凛は、その犠牲者となってしまいました。
しかし、あのまま二人が柴田家にとどまることは果たして正しいでしょうか?
凛は繋がりを得て、表情豊かに生きられることでしょう。
しかし、祥太はあのまま柴田家にいたとしたら、せっかく目覚めた彼の自我、社会性の気づきが摘みとられてしまうでしょう。
祥太にとっては、あのまま柴田家にいることはプラスではないでしょう。
社会的な「正義」も、柴田家という「正義」も、どちらを選択しても、両方にとっていい選択とはならないのです。
前半で描かれ、観客が抱いていた「正しさ」と、世間的に正しいとされている「正義」。
その両方ともが答えではない、ということを突き付けます。
どちらをとっても、凛か祥太、どちらかは不幸になってしまう。
そういったジレンマの中に、答えのない問いが存在することを示唆しているのです。
しかし、映画の中で、一つだけ、この問題に対する答えのようなものが提示されます。
その役を担った俳優とは、柄本明です。
・子供は誰が育てるのか
血の繋がりか、心の繋がり。
どちらか片方を失った子供は、幸せに育つことはできないのでしょうか。
どちらか片方を失った子供は、誰に育てられるべきなのでしょうか。
彼らを育てる存在。
それは、社会なのではないでしょうか。
児童虐待のニュース、それを見て多くの人は怒り、悲しむでしょう。
しかし、被害者を憐れむだけでは何も変わりません。
先述したように、現代の社会は、人と人との繋がりが希薄になりつつあります。
何が正しいか?何が間違っているか?
それを子供に教えるのは、親の義務です。
例えば、小さい子供が電車の中で騒がしくしている。すると、それを「静かにしなさい!!」と注意できる頑固おやじが、今どれだけいるでしょうか。
親が子供を注意せず、ほったらかしにしているにもかかわらず、そういった頑固おやじはむしろ白い目を向けられるのではないでしょうか。
親は子供に公共の場では他人に迷惑をかけるようなことはしてはいけない、ということを教える代わりに、スマホでゲームをさせて黙らせている場面をよく見かけます。
先日ネットにて「アンパンマンは暴力的である」という批判があがったという記事を観ました。
しかし、親の義務とは、「暴力とは振りかざすものではない」ということを教えることであって、「アンパンマンは暴力的、あれをみて子供が暴力的になったらどうする!」と抗議をすることではないと思います。
真に教えるべきことが歪みつつある現代社会。それは、社会における人間関係の希薄さが生んだ副産物なのではないでしょうか。
繋がりが薄れる中で教育は親だけがするものとなった。
そうやってすべて親のみに押し付けてきたことよって、親の負担が過剰に増え、児童虐待のニュースが増えてきたのではないでしょうか。
間違ったものに声を上げられる頑固おやじ、それは社会のもとの教育者だったのかも、と思うのです。
そういった、社会が子を育てるという役割を示したキャラクター、それが柄本明のキャラクターだと思っています。
それは、祥太と凛が万引きをしていた駄菓子屋の主人です。彼のセリフとは?
「妹には、させんなよ」
セリフは、ほぼこれだけといっても過言ではありません。
しかし、この一言によって、祥太は自身の善悪を問うに至るのです。
祥太と凛が駄菓子屋で万引きをしていたところ、突如主人に声をかけられます。
そして、二つのお菓子(なんかチューブのゼリー?みたいなやつ)を差し出して、「これ、やるよ」というのです。
そして、そのあとにこの一言を発します。
万引きはばれていない、と踏んでいた祥太でしたが、実はとっくにばれていたのでした。
しかし、主人はそれに怒鳴りつけたりするのではなく、あくまで自分自身でその行為の間違いに気づくように働きかけたのです。
それをきっかけとして、祥太は「僕がやっていることっていけないことじゃん」と気づき、自問自答するようになります。
子供を育てるのは、繋がりだけではない。こういった「社会」が、正義や法うんぬんではなく、育てていかなくてはならない。と感じました。
・この映画は「社会批判の映画」なのか?
答のない問いを漠然と突きつけ、正義の光と影を描いた本作。
是枝裕和監督は、この映画を通して社会批判をしたがっているのでしょうか?
僕は、社会はこうあるべき!と社会批判をしているわけではないと、思っています。
今の社会が抱えている問題。
それは、僕にはこういうように見えているよ、と、映画という芸術世界を通じて是枝裕和の脳内、視界を覗いているように思えるのです。
この映画は、柴田家の人物ひとりひとりにバックボーンがあり、それらが複雑に絡み合って形成されています。
信代が流した涙、祥太の乗ったバスを追いかける治、何かに失望したような亜紀の目、死期を悟った初枝の顔・・・
などなど、見所はまだまだ満載です。
各キャラ一人一人の背景にそれぞれ奥深いテーマがあります。
そういった奥深いドラマを観客に対峙させることで、観客に答えのない問いに対面し考えさせる機会を与えているのではないでしょうか。
たった120分のなかで、観客を飽きさせることなくそれだけのテーマと芸術性、ドラマ、問いかけをしてしまう。
是枝裕和という芸術家の脳内を覗くようなこの感覚こそ、本作が高い評価を受けるゆえんなのでは、と感じます。